コメント: 「グーグル和解問題」、どこが問題か? ●干場

1 - 4 : 全 4 件

 興味深く拝見しました。今回、日本文藝家協会が、グーグル和解案を積極的支持する方針に転換を図ったと報じられており、冷静な議論をする環境ができつつあると感じています。
 少々観点が異なるかもしれませんが、感じていることを書いています。よろしければ、お読みいただければ幸いです。著作者への還元を増やすことは、大賛成です。作家の皆さんあっての文藝文化ですから・・・。


●文芸家協会、グーグル和解案積極支持へ方針を大転換!
  http://blogs.yahoo.co.jp/teabreakt/53329213.html 

●グーグル和解案が作家への強力な援軍に?!  
  http://blogs.yahoo.co.jp/teabreakt/53370574.html 

dcさんへ
何か、それこそ、根本的な誤解があると思うのですが……
 出版社は、著者と読者をつなぐものです。そういう意味で、コンテンツメイカーであり、現在の本という携帯の中では、コンテンツディストリビューターです(正確には、取次と書店がその部分を担っていますが)。

 コンテンツに価値を見いだすのなら、それを生み出した人へのお礼として、そして、そういう人を育成するためにも、なにがしかの対価をわたすべきだとはおもいませんか? 
 それとも、すべて無料にすべきだとお考えなのですか?
 でも、心配なのは、それでは、コンテンツを生み出す人がいなくなってしまうのではないかということ。
 
 あるいは、そもそも公開するのを止めて、結局、ごく一部の人だけに、提供するようになってはしまわないでしょうか?(すでに一部でおこっているとも聞きます)

 結局、グーグルも、コンテンツの価値を認めて、コンテンツソースに、払うことにしたわけですし…。

 日本にこれから残るのは、広い意味でのコンテンツだと思います。確かに、儲けるのは、その受け皿の仕組みを作る側でしょうが、でも、仕組みだけあっても、中身がないとしたら?
 その中身(コンテンツ)を、大事にしていかないと、そだたないだけでなく、基本的なところで、その大事さを知っている外国に、浮世絵みたいに持って行かれてしまうだけだったりして!?

 わたしが怒りを感じるのは、出版社がやばくなるからとかそういうことではなくて、コンテンツを生み出す人に対する軽視に対して、です。

 おいしいお料理を食べさせていただきながら、料理人への敬意もなく、あわよくばただで食べちゃおうか、それどころか、ただでいただいたものを、別の人に、売っちゃおうとか、そういうことに対してです。

 ただ、おっしゃるとおり、そして、弾さんもかいているとおり、出版を現在のみの形にこだわっていては、出版社は不要になるでしょう。読者にとっても著者にとっても不要の存在となるでしょう。

 著者と読者をつなぐのが出版社と取次、書店の仕事なら、その仕事をこのままの流れで行けば、グーグルやアマゾンが担うことになるでしょう。最初は、人のつくったものを、あわよくばただで使おうとしていただけだとしても、いずれ、自分たちで、つくるようになるでしょう。
 そういう意味では、たしかに、既得権を守るような立場だけで怒るのは、大いに勘違いでしょう。

 なので、この先、何もしないで今の形での出版にこだわるような会社は、私もいらないと思います。おっしゃるとおり、紙と印刷技術と共に歩んできた出版は、その長い長い使命を終えるのです(ごく一部は、「モノ」としての価値として残るとしても)

 でも、その「仕組み」がどうあれ、コンテンツは常に必要です。知や情報をシェアし合う、その知や情報そのものは。
その発見と育成と発表と選択が、編集なのでしょうが、その機能は、なんらかの形で必要となるでしょう。その意味で、ディスカヴァーは、コンテンツメイカーとして、世の中に、必要である限り、機能していきたいし、必要とされる形を見つけていきたいと思っています。今は具体的には言えませんが。

 もちろん世界中の人が、いや、21世紀の「出版社」はグーグルとアマゾンの2社だけでいいのだ、と、そう思うのだとしたら、まあ、しかたないので、別のもっとおもしろいこと、始めようかな?

もう少し進歩的な方だと思っていたので、読者の視点があまりに足りなすぎるこの記事を読んでとても残念に思いました。
再販価格維持を許されるなど他業種に比べ、歪なまでの特権を得ている以上、まず第一に公共性、読者の利益を最優先に考え、動くべきだと思います。
出版社のために読者が居るのではなく、読者のために出版社があるのです。
こうした、根本的な勘違い、傲慢さが出版業界に蔓延しているのであれば、丸ごとgoogleやamazonに「ぶっ壊して」もらうのも日本のためには悪くないのかな、とさえ感じてしまいます。

この問題の背景として、アメリカと日本で「情報」や「コンテンツ」のデジタル化について、意識が全然違ってきているということを直視する必要があるのではないでしょうか?

たとえば、アメリカの大学で勉強していると、オンラインで論文検索をしながら参考文献をダウンロードして調べ物をすることができます。その利便性たるや凄まじいものがあり、日本で図書館や書店を回って文献を集めるのとは比べ物にならないほど効率的ですし、成果物にも差が生じるように思います。知的な営みのインフラ部分で、彼我の差は非常に大きくなりつつあります。

そして、このグーグルの和解は、アメリカ国内で著作物をどう取り扱うかという、まさにアメリカ国内法の問題ですよね。ですから、アメリカ人が個々の権利者の保護よりも情報の知的インフラとしての側面を重視してこの問題の結論を出したとしても、それは彼らの価値観の問題ではないでしょうか。私たちがアメリカ中心主義と批判するのはピントがずれているように感じます。アメリカのみならず全世界にダウンロードさせてあげよう、という話ではないのですから。むしろ、日本の著作権法の考え方をアメリカ国内に強制したいという発想の方が、やや奇妙ともいえるのではないでしょうか。

もちろん「絶版」の定義(慣習的伝統的な方法で商業的に入手可能かどうか)は、アメリカ国内からであっても日本の書籍をインターネットを通じてアマゾン・ジャパンや紀伊国屋に注文可能という現状を無視しているので、私も不合理であると思います。

しかし、ここが違っていたら、どうでしょう?この問題の本質はアメリカによる「黒船」でもなんでもなくて、日本でも、個々の著作権者の保護よりも情報の知的インフラとしての側面を重視すべきと考える人が増えた場合にどうなるのだろうか、という純粋に日本国内の問題になるのではないでしょうか。ですので、この問題を黒船として捉えると一番、重要なポイントを見失ってしまうような気がします。


コメントを投稿

* コメントは記事の投稿者が承認するまで表示されません。