出逢いと献身の写真表現

 風の旅人26号で紹介した写真家の古賀絵里子さんの初写真集が刊行された。
 「浅草善哉」というタイトルだ。それに合わせて、写真展が広尾のエモンフォトギャラリーで開催される。(1月20日~2月20日)
 「浅草善哉」の写真は、古賀さんが2003年に出逢った浅草に住む高齢の夫婦のところへ約6年間通い、撮り続けたドキュメンタリー作品だ。
 古賀さんは、経歴も写真も、その人の一部でしかないと言う。どんなに素晴らしい一瞬を写真で切りとっても、そこに写っていないものは、たくさんあるのだと。 しかし、そうした謙虚な思いで接し続けるからこそ、一つの写真や文章のなかに、対象の一部ではなく全体像の予感が濃密にこめられることも事実だ。実際に、「浅草善哉」の中の写真や言葉には、ここに登場する老夫婦の晩年の生活から死の瞬間までの何とも言うに言われぬ命の機微を、浮かび上がらせる力がある。
 現在は、カメラさえあれば誰でもキレイな写真を撮ることができる。しかし、見る者の心のうちにしっかりと記憶されたり、何かしらの作用を及ぼし続ける写真は、めったにない。ほとんどの場合、それらの写真を見ている間だけ楽しいとか好きとかキレイとか面白いと言わせるだけで、見終わったら、それを見た時間でさえ自分の人生とほとんど関わりがないものになってしまう。
 写真に限らず、人は人生において様々な人間や出来事と関わりを持つことができるのだが、関わりを持ったつもりでいても、実際は表面的な現象に触れるだけで、自分のなかに深く刻まれるほどの出逢いになっていないことが多い。
 出逢いというのは、それが自分にとって何かしらの事件となる瞬間だ。テレビのニュースでは連日のように事件と称するものが報道されているが、それが他人ごとか自分ごとかによって、記憶への刻まれ方は異なってくる。
 物事を伝える際、刺激を強めようとして、人よりも大きな声を出したり、わざわざ衝撃的なシーンを選りすぐって編集する人がいる。テレビの報道が典型だが、視聴率を高めるために他よりも目立とうとして、単純化してわかりやすく大げさに伝えることが多くなるのだ。
 しかし、わかりやすく、衝撃性の強い情報発信は、その瞬間、見る人を驚かせることはできるかもしれないが、自分ごとの事件として心に深く刻まれ人生におけるかけがえのない体験となるものなのだろうか。
 好きとか嫌いとか、キレイとか汚いとか、良いとか悪いとか簡単に決めつけてしまえるようなものは、自分の中に固定化されている価値判断の範疇のものであり、自分の認識を変えるほどの”出逢い”とは言えない。
 そして、おそらく、そうした情報の伝達者じたいが、その出来事によって、自分の認識が変わるほどの関わり方をしていない。つまり、心から出逢っていない。だからこそ、安易に、乱暴に情報を単純化することができる。そして、ものごとに出逢っていない人が伝える情報によって、ものごとに出逢える筈がない。情報を伝えるものも、伝えられるものも、情報を次から次へと消費していくだけとなる。
 古賀さんが撮り続けた「浅草善哉」の写真を見ると、古賀さんが、この老夫婦と出逢い、二人の関係性に深く関わっていることが、まず伝わってくる。これは老夫婦二人の物語であり、同時に、その二人との出逢いが”事件”になっている古賀さんの心の物語である。だから、これらの写真を見る者は、古賀さんの”事件”を追体験し、その物語のなかに引きこまれながら老夫婦と出逢い、その出逢いが自分にとって一つの事件となる。
 ここにあるのは、社会派を自称する写真家などが好んで用いる「老々介護」とか「老人の孤立」といった陳腐なテーマ設定ではない。また、人々の同情を誘う単純な物哀しい物語でもない。哀切ではなく、痛切であり、だからこそ美しいのだ。
 人間というものは、どんなに完全に見えるような人であっても、一人だと何かが欠けてしまう。一人では不完全な人間は、相棒と出逢うことで、他に取り替えのきかない美しい関係性を作り出すことができて、その関係性じたいが、人間の最高の美質であるということを、古賀さんが出逢った老夫婦が伝えてくる。そこに顕現化する美や幸福は、相対的なものではなく絶対的なものだ。人と比べてどうのこうのといった比較問題ではない。
 古賀さんが撮り続けた老夫婦のあいだの、「愛情」などと簡単に言葉に置き換えられない関係。たとえば、使い込んでボロボロになっているけれど、その価値は自分にしかわからない大切な道具に対する愛おしさのようなもの。
 二人のあいだだけでなく、家の中の様々な物と物、物と人間のあいだに、そうした空

2012/01/05 01:16



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