【梅田望夫観戦記】 (2) 人間が人間と戦う将棋の面白さ盤面は、一手損角換わりの最新形で進んでいる。
二日制、持ち時間八時間の将棋は、一日制、持ち時間四時間のタイトル戦に比べて、時間がゆったりと流れている。
後手・羽生挑戦者が選んだ一手損角換わりの将棋を、控え室の米長さんは「一手損角換わりはみんなで研究した結果、先手有利という結論になるだろう。しかし、それは私が生きている間に解明されるかはわからない」と予言する。果たして現代将棋には、米長の予言を超える革命的な変化が訪れようとしているのだろうか。それはまだ誰にもわかっていない。両対局者をはじめとした現代トッププロたちが、日夜、その解明にいそしんでいるのである。そのうちの一人である佐藤康光さんは「僕が生きている間にも解明されないと思いますよ。僕は後手番持つのも大好きなんですよね(笑)。」と言う。
『羽生名人は常に安定した力を出してくると思う。自分がだらしないとシリーズが盛り上がりません。自分の出来次第だが、力を十分に発揮したい』
「週刊将棋」10月15日号で決意をこう語る渡辺明竜王について、将棋にあまり詳しくない方にも興味を持っていただけるよう、ここで少し詳しくご紹介してみたい。
羽生挑戦者を迎え撃つ渡辺明竜王は、羽生との世代対決を戦うべく宿命づけられた天才である。
私も含め将棋ファンが初めて渡辺明という存在を知ったのは、1995年春、彼がまだわずか10歳のときのことである。それは河口俊彦七段が「将棋世界」誌人気連載「新対局日誌」(1995年4月18日の項)で、こう書いたからだ。
『将棋界は十年に一度の割り合いで天才が現れる。みなさんご存知だろうか。名を挙げれば、加藤一二三、米長邦雄と中原誠、谷川浩司、羽生善治である。その流れからすると、羽生が四段でデビューしてから約九年。そろそろ大天才が現れる頃だと思っていた。
歴史は誤らない。ちゃんと天才が現れたのである。
渡邊明君といい、昨年奨励会に6級で入った。そして半年あまりたった今は、すでに2級である。年は小学校五年で十歳。(中略)
用事にかこつけ、銀座に出て、「萬久満」に寄ると、中原、佐藤(義)、小倉の面々がいた。
結局話し込んで、帰りは午前様になってしまったが、そこで例の渡邊少年の話をすると、中原さんは「ほう」と眼を輝かせ「その子に羽生君はやられるんだ」すかさず言った。こういう一言は書き留めておく値打ちがある。』
これは一部では有名なエピソードだが、有名なだけに正確を期したいと思い、出発前に将棋世界のバックナンバーを探して当該個所を筆写してきた。彼はその頃まだ「渡邊」という姓を使っていたようである。
渡辺は2000年、中学校卒業前に四段となった。過去に中学校卒業前に四段となった棋士は、加藤(一)、谷川、羽生の三人しかおらず、渡辺が四人目になった。河口がこの文章を書いた5年後のことだ。
渡辺が「その子に羽生君はやられるんだ」という中原の予言を意識せずに成長したとは考えにくい。世代対決の申し子を自覚しながら四段になった15歳の渡辺は、当然のことながら自信満々だった。
『放っておいても、自然にやっていれば、25歳くらいでトッププロになると思っていたんです、15歳のときは。』(将棋世界06年11月号)
と渡辺は述懐するが、プロになって3年目に佐藤康光王将(当時)とぶつかり、羽生世代の強さを体で知り、強い危機感を抱くことになる。
『3年目に佐藤さんと指して、「放っておいたらまずい」と思った。ちょっと模様がいい将棋だったんですが、勝ちきれなかった。あとから見るときわどい将棋であるんですけど、完全に読み負けている。
終盤はほとんど読みにない手ばかり指されましたから。たしかに自分も多少は強くなるでしょうが、上も強くなりますから、25歳になっても、この関係はあまり変わっていないだろうと思った。佐藤さんと指して危機感を持ったのは大きかったと思います。』(同)
と語っている。このインタビューの中では特定していないが、おそらく2002年5月29日の王座戦本戦で佐藤に敗れた将棋のことを言っているのだろう。危機感を持って精進した渡辺は、まもなく期待通りに頭角を現す。その翌年の王座戦本戦トーナメントで優勝し、羽生王座に挑戦することになった。このタイトル初挑戦が19歳のとき、2003年夏のことである。タイトルは獲得できなかったけれど、羽生をギリギリまで追いつめた五年