稲むらの火

 1月17日、阪神淡路大震災から17年目を迎えて、各地で防災行事や追悼イベントが行われた。
 昨年は東日本大震災もあって、日本が地震大国であることの事実と、備えとなる防災の重要性を日本中が痛感していることと思う。

 東京数寄屋橋には、関東大震災を忘れぬよう建てられた「平和の神の像」というのがあって、そこには「不意の地震に不断の用意」という文字が刻まれている。
 まさに、地震のようにいつ襲ってくるかわからない災害に対しては、日常からいざという時の準備や訓練をしておくしかない。
 しかしながら、のど元過ぎて熱さを忘れたり、対岸の火事と高をくくりやすいのが人間の常であり、かくいう私も自分自身がどういう災害に際してどう行動すべきかというシミュレーションがきちんとできているかというと自信がない。
 「瀬戸内海は、大きな地震もないし、まして津波の被害などはありえない。」というのが、このあたりに住む人々の大方の意見のように思われる。
 私も、統計上確率としては少ないであろうということで、ある種の安心感をもってきたことを正直に打ち明ける。

 しかし、四国北部は東西を貫く形で中央構造線が通っているし、100~150年周期で発生している南海大地震においても、1707 年宝永大地震、 1854年安政南海大地震などの記録によれば、広島や愛媛の沿岸地域で、1.5~2.5Mの津波が襲い、農地や家屋に被害を与えたとされている。また東日本大震災の状況が酷似しているとされる平安時代には、東海、東南海、南海の連動による大地震も起きている。決して他人事ではないのだ。

 戦前の小学校の国語教科書には「稲むらの火」という話が掲載されていた。
 1854年の安政南海大地震の際、紀伊国広村(現・和歌山県広川町)で起きた実話を題材にした物語である。

 物語の主人公である五兵衛は、村の高台に住む庄屋で、地震で揺れた後に、海の水が沖へひくのを見て津波を予測。祭りの準備にいそしむ村人たちに危険を知らせるため、刈り取ったばかりの稲束(稲むら)に火をつけた。村人は火事だと思って高台に集まったことによって津波からまぬがれることができたというストーリーで、五兵衛のモデルは、濱口梧陵という実在の人物だ。

 史実においては、濱口梧陵は商人であり、家は町中にあったという。また、燃やしたのは脱穀を終えた藁の山であり、津波を予知してではなく、津波が来襲したのち、暗闇の中で村人に安全な避難路を示すためであったらしい。
 しかし物語には描かれていない大きな功績が梧陵にはある。彼は津波による災害の後、将来の憂いに備え、私財を投じて村に防潮堤を築いた。この防波堤が、事実100年後にこの地を襲う昭和の東南海・南海地震による津波から集落を守ることになる。

 犠牲を払って100年先に地域の人々を救う備えを施した梧陵と、いつやって来てもおかしくないとされる大地震に対して自らの備えもなしえていない自分との落差に少々顔を赤らめてしまう。

 稲むらの火は、自然災害と背中合わせの日本という国の心構えを示すものであると同時に、日本人の本来持っている公共の精神を象徴するものであると感じる。
 稲むらの火を絶やしてはならない。
 

2012/01/19 00:59



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