編集部員・菊地高弘の「野球楽屋噺」

 突然ですが、今日から編集部員の新連載コーナーがスタートします。担当するのは『中学野球小僧』誌面で「菊地選手」として登場する菊地高弘編集部員。取材・企画の舞台裏を「楽屋噺(がくやばなし)」としてお伝えしていきます。 第1回はちょっと長いですが、本人曰く「僕の野球人生すべてを込めた」という入魂の手記ですので、自己紹介代わりにお楽しみください!

第1回・岩隈と対戦できなかった男<1>

 脚がガタガタと揺れる小さな円卓で、いつものように簡単な打ち合わせが開かれたときのこと。「中学野球小僧のミポリン」と呼ばれる先輩が「キクリン、岩隈の取材申請よろしくね」という指令を出しました。

 「岩隈」とは、当然、東北楽天ゴールデンイーグルスのエース・岩隈久志投手のことです。
 岩隈投手と僕には、「深からぬ」因縁がありました。
 「深からぬ」と書いたのには、深い理由があるのです。今日は、そのお話をさせていただいてもよろしいでしょうか。

 今からちょうど10年前の1999年、僕は東京の名もない高校の球児でした。
 3年最後の夏、初戦となる2回戦を15対0の5回コールド、3回戦を7対2と順調に勝ち上がった僕らは、4回戦でシード校の堀越高校と対戦しました。そのエースは「岩隈久志」という、プロ注目の投手でした。

 初めて岩隈投手を見たのは、3年春の練習試合のときだったと記憶しています。
 当時の岩隈投手は、「長身痩躯」という言葉では足りないくらい、信じられないほどにガリッガリでした。
 試合前ノックでサードのポジションについた岩隈投手は、その体型から一際目に付き、そしてムチよりもしなる腕の振りから、恐ろしい送球を放っていました。他の選手の送球ははっきりとボールの「円」が見えるのに、岩隈投手だけ楕円形のボールを使っているんじゃないかと思うくらい、ボールの原型が見えなかったのです。マウンドから全力投球したら、一体どんな形になってしまうんだろうと戦慄しました。
 その練習試合では登板はおろか、試合出場すらなかった岩隈投手。その時はまさか、最後の夏に堀越と戦うとは思いもしませんでした。

 逃れられない暑さに覆われた7月の立川市民球場。ライトのポジションで芝生から立ち上る異常な熱気にひたすら蒸らされ、なかなか終わらない相手方の攻撃に文字通り業を煮やして、「早く試合が終わらないかな」という想念が一瞬よぎってしまったことを覚えています。
 そう思った時点で負けなのでしょうが、それも無理のない暑さだったのです。今もナメクジに塩を振るたびに、あの夏の暑さを思い出します。

 1対11。5回コールドで、僕の最後の夏は終わりました。
 そのマウンドに、最後まで岩隈久志が立つことはありませんでした。
 2番手の投手に投げ切られてしまったのです。

 曲がりなりにも「例のマンモス球場」を毎日思い浮かべながら2年半を過ごしてきた僕らにとって、「エースの投げない相手にコールド負け」という事実は、あまりに容赦のない現実でした。
 試合終了後、3年生20人全員で寄った立川のデニーズで、禁止されていた炭酸飲料を飲みながら、僕らは負ったばかりの痛手を忘れるようにはしゃぎました。
 その後、20人の坊主軍団はゲームセンターへ、カラオケへと移動して、高野連が知ったら顔をしかめるくらい、バカ騒ぎしました。僕は『別れても好きな人』を一人デュエットで歌ったという記憶があります。20人全員が「もう野球はいいわ」と思っていたんじゃないでしょうか。堀越がベスト4で負

編集部員・菊地高弘の「野球楽屋噺」
2009/09/10 16:00



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