将棋を世界に広める夢(創刊号,1996.4.1)

一貫して将棋部に
 4歳のころに将棋を覚えて、中学、高校、大学と将棋部に入って将棋を指し続けてきた。
 外務省に入って、スペイン語を勉強することになり、1982年の夏からスペインのサラマンカという古い大学町に2年間語学研修のために留学した。今では多くの日本人が留学や短期の語学研修のためにサラマンカを訪れるが、当時はまだまだ日本人の数は少ない。町行く子供達は日本人と中国人の区別がつかず、「チーノ、チーノ(中国人)」と呼びかけられる。日本から毎月2冊送られてくる将棋雑誌だけが将棋との接点であった。(外務省経済協力局 山田彰)

 外国に行けば、一人一人の日本人が日本の代表と見られ、日本のいろいろなことについて説明を求められる。外交官という仕事柄、私は一層そういう目で見られる。サラマンカでは学生寮に入ったが、ここでもスペインの学生からはいわば日本の代表として扱われ、いろいろな日本についての質問に答えることになった。しかし、むろん彼らは将棋というゲームの存在すら知らなかった。
 大学生たちとはよくチェスを指したが、チェスを指す度に、取った駒を使え、終盤になればなるほど複雑になり、目を見張るような捨て駒が出る日本の将棋の面白さを何とか彼らに教えたいと思った。日本からは将棋の駒と盤を持参していたので、チェスよりもずっと面白いゲームであると説明して寮生達に教えてみたが、寮生は将棋の駒の漢字が判らないし、教え方が悪かったのであろうかルールを覚えるまでもなく、将棋の海外普及は挫折してしまった。海外普及といえば学生寮では薄茶のお手前を立てて学生に飲ませたら、こんな苦いものがよく飲めるな、砂糖は入れないのかと言われたこともあった。
 将棋の普及はチェスの強豪からと言われるが、マドリッドのチェスクラブに行ってみると、将棋を指している人はいなかったが、日本人が碁を教えていた。三上さんというその人はマドリッドに住んでスペイン人に碁を普及することをライフワークとし、自分の弟子を世界選手権に出すのだと張り切っていた。「自分も世界に、特にスペイン語世界に将棋を広めてみたいものだ」と感じたものである。

小論文に将棋入門
 そういう事もあって2年間の留学の成果として大使館に小論文を提出することになっていたが、論文を書く代わりにスペイン語の将棋入門を書くことにした。当時参考にしたのは何冊かのスペイン語のチェスの入門書やLegget氏著の’Shogi‘であった。現在、「将棋を世界に広める会」では、各国の将棋棋譜の英語表記方法を研究して統一的な表記を推薦しようとしているが、私がスペイン語の最初の入門パンフレット(三十数頁)で採用したのは7vip(7六歩)という形式のものであった。
 歩はP(peon)、香はL(lanza)、桂はC(caballo)、銀はPl(plata)、金はO(oro)。角はA(alfil)、飛車はT(torre)と訳した。
 チェスの駒のスペイン語訳を借りているが、金、銀、香は新たに作った訳である。(但し、Lanzaは「槍」の意)。
 スペインでの研修の後にアルゼンチンに赴任し、日本大使館で2年間勤務したが、ここでは将棋に関する講演会を開いただけで、せっかく作った将棋入門書を使う機会もなかった。
 アルゼンチンでの2年の勤務を終わって帰国し、その後6年間日本で勤務することになった。私の父は、私の作ったスペイン語のパンフレットを見て以来、スペイン語で将棋の本を出せとうるさく言っている。私もスペイン語で本格的な将棋入門書をいつか書きたいと思っていたが毎日の仕事に追いまくられる中でそういう機会を持てなかった。本当は機会がないのではなく、作らなかっただけであり、怠惰のなせる業であった。

ワシントン将棋クラブ
 1992年から2年8ヶ月ワシントン勤務になったが、ワシントンの日本大使館は仕事も忙しく、将棋を指す機会もなかなかなかった。その当時読んでいた将棋世界誌にプロの棋士がワシントン将棋クラブで将棋を指導するという記事が掲載されたように記憶しているが、そのクラブに行ったことはなかった。ところが、帰国直前にひょんなきっかけからワシントン将棋クラブを紹介され、日本から将棋指導にやってきた石川五段、北島新四段ともそこで指す機会を得た。
ワシントンの将棋指導の2回目には私から大使館の文化広報センターに頼んで場所を借りたが、石川五段が国際交流基金の派遣で米国を訪問していたにもかかわらず、大使館の文化担当官がプロ棋士の派遣について何も知らなかった(聞いていなか

1996年発行 | 一般・日本
2004/07/21 13:45



コメント

コメントを見る (0)

コメントを投稿

* コメントは記事の投稿者が承認するまで表示されません。