人物紹介コーナー(49号、2010年2月20日発行)

 今回は、Pineau Jacques-Marie (ピノー ジャック・マリー)氏を紹介します。と言いましてもピノー氏を知らないISPSの会員は、あまりいないのではないかと思います。本会発足以来、理事を務め られ、海外普及に大きく貢献されてきました。いつも近くにおられますが、実は、じっくりとピノー氏の想いを聞く機会はありませんでした。インタビューをし てみると、驚くことばかり。つくづくお聞きして良かったと思っています。(松岡信行)

ピノー氏と言えば、チェスの大家として誰でも知っていることでしょう。日本チャンピオンに輝くこと2回。羽生名人、森内元名人のチェスの先生。将棋も中々の指し手。このようなことは、以前から知ってはいたのですが、ある時、目隠し将棋ならぬ、目隠しチェスを6人相手にしているところに遭遇。しかも、次々と打ち負かしている。以前に、12人相手に指したことがあると聞いたときの驚きは、今も鮮明に蘇ります。今回は、池袋の椿屋珈琲店の一角を会場としました。

コーヒーの薫りの向こうに、いつもながらの優しいまなざしに迎えられ、席に着き、あいさつもそこそこに、早速、インタビューに入りました。

フランス、ツーレヌ出身、48歳。ツーレヌは大河、ロワール川のほとりの都市で、温暖な気候は歴代のフランス王にも愛され、ルネサンスの頃には、王自らが住んだそうです。歴史的建造物も多く、恵まれた環境だったと、透明な光の下で客観的な精神が培われたと、懐かしそうに語ります。

「24歳のころ日本に来ましたから、フランスと日本。丁度、同じ年月、住んだことになります」
「日本に来た切っ掛けは、どういうことだったのですか?」
「小学校の頃です。フランス人の父とベトナム人の母を持つ友達がいまして、家族ぐるみで、とても暖かく迎えられたのです。絶えず黒白を付けたがる北ヨーロッパの文化との違いを感じ、いつかアジアに、と思っていたのです。学生の時、妻に会い、日本に来ることを決めました」
何時、チェスの力を身につけたのかを尋ねた時です。
「中学生のときでした。国語の先生が、私の応答はどこかおかしいと、母に告げたのです」
全く違う話しが始まったのには驚きました。
「実は、先生の言っている事がよく分からなかったのです。原因を調べると、耳がよく聞こえていなかったことが分かりました。慢性の中耳炎だったのですね。2年ほど、夏休みを利用して、ピレーネ山脈にある療養所で集中的に治療を受けました。その時、一人の先生が私にチェスを教えてくれたのです。耳が駄目な分、目に頼ったのでしょうか、すっかりチェスに取り付かれました」
「直ぐに強くなったのですか」
「治療を受けている時、すでに教えてくれた先生とほぼ対等というか、弱点を見つけ、少し優位になっていたと思います。地元に戻ると、チェスクラブを見つけ入会しました。地方では一番強いクラブでしたが、一年もしないうちに、代表チームのメンバーとなり、翌年、地元のチャンピオンにチャレンジ。フランスのトップのジュニアになりました。ですが、高校、大学は、勉強が忙しく、数多くの大会に参加することはできませんでした」

 続いて、日本に来てからの、チェスとの関わりを尋ねました。
「ベルフォーレで行われた、世界ジュニアチャンピオンシップで知り合った小林さんに、日本チェス連盟を紹介され、権田さんと何度か対戦しました。初年度で、日本チャンピオンになったのですが、日本に来た大きな目標、『チェスを通じて、沢山の友人を』、との願いは中々進みませんでした。日本語の不足はどうしようもなかったのです。それでも、1988年、テサロニキでのオリンピック、1992年のマニラでのオリンピックで日本チームのメンバーとして貢献できたことは嬉しいことでした。やがて、自分が強くなることより、日本にチェスを普及する方が重要だと思えてきました。そこで、1989年に朝霞チェスクラブを立ち上げたのです。

2010年発行 | 一般・日本
2011/01/08 15:40



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